「韓国にとって入試は現代版の『科挙』なんだね」

解説-韓国のチョ・グク氏は多数の疑惑がありながらも、最終的には法相に任命されました。その疑惑の中でも最も韓国民を怒らせたのが、娘の不正入学問題でした。思い出せば、朴槿恵前大統領が辞めるきっかけとなったチェ・スンシル事件の時もチェ氏の不正入学疑惑が一番韓国民の怒りに触れた疑惑でした。

このように、韓国国民は権力者が権力を行使して近親者を名門大学に入学させるという不正に対しては、とてつもない怒りを覚えるようです。一つには苛烈な受験戦争社会である韓国において、権力者が実力もないのに権力を使って、その戦争を不正に勝ち抜くことに対する怒りがあるのでしょうが、私は歴史的な視点から新しい見方をしたいと思います。

それが今回のセリフにもある「科挙」という単語です。この「科挙」という視点から見てみると、現代韓国民が権力者の不正入学に対して、何故ここまで怒りが増幅してしまうのかが説明できるのではないかと思っています。

-「科挙」とは

「科挙」とは中国が隋の時代に優秀な人材を登用しようとしてはじまった試験制度です。それまでの古代中国では、官吏登用は推薦による選抜で行われていました。しかし、それでは権力の独占につながり、優秀な人材が登用できないということで、公平な学科試験を通じて、人材登用を図る為に「科挙」がはじまりました。

これはかなり画期的なことで、出自に問わず、科挙に合格さえすれば、官吏になることができるということです。ヨーロッパでさえ18世紀くらいまで高官は世襲が当たり前だったことを考えると、出自に関係なく、能力によって出世できるという何百年も先の先進的な制度を6世紀の隋が先取りしていたと言えます。

この科挙は隋が滅びた後の唐以降の王朝にも引き継がれました。また、科挙は朝鮮半島にも伝わり、788年に高麗が導入し、その後1894年に廃止されるまで、科挙制度は存続しました。ちなみに日本でも平安時代に科挙が導入されましたが、世襲の貴族の強い反対により、定着しませんでした。

優秀な在野の人材を登用する為にはじまった科挙制度ですが、実際は試験が難しく、出題範囲も膨大なため、親がお金持ちで、勉強する時間を使える人間でなければ、合格することは難しかったと言われています。それでも、当初は出自に関係なく、優秀な人材を登用できる科挙という制度は当時の世界最先端の制度だったと言えます。

しかし、明の時代になると科挙の出題範囲が変わっていきます、それまで、広すぎた科挙の主題範囲を四書五行(論語・孟子・大学・中庸・易経・詩経・書経・礼記・春秋)に絞ったのです。これは朱子学の影響が強くなってきたことが原因とされています。

以前の科挙では、実際の政策に関する意見を聞く散文の試験もあったのですが、明の時代には四書五経をひたすら暗記した人間が合格するという試験に変わってしまったのです。そうなると、古典を知っている人間が合格していき、現実の政策には知見を持たない人材が高級官僚として政治を動かすことになります。

こうして、科挙制度は優秀な人材を登用する制度としての機能を実質的に終えてしまいます。私は朱子学が持つ「礼」を重んじることによって起きる、上下関係を重要視する思想こそが、東アジアの民主主義への発展を阻害している原因だと思いますし、この朱子学を国家公認学問として朝鮮半島では現在でもこの朱子学の影響が残っていると思います。

-朝鮮半島への影響

この朱子学の「礼」を重んじる結果、上下関係を重視する思想と科挙が組み合わさった悪影響が出てしまったのが朝鮮半島です。朱子学を国家公認学問とした結果、「両班」と呼ばれる特権階級を頂点とした身分制度が確立してしまいます。

次第に科挙を受けることができるのは、両班と両班の次の階級である中人と呼ばれる身分だけになってきます。しかも、中人は高位の官僚にはなれない仕組みになっていくばかりか、中人より下の階級の身分の者は、科挙を受けることができなくなってしまいます。

こうなると出自に関わらず、優秀な人材登用を行う制度であった科挙の本来の意義はなくなり、両班という特権階級守るための制度になってしまったのです。身分を越えて優秀な人材を差別なく登用する科挙が、逆に身分を固定化して下位の階級を差別する為の制度として機能したというのは何という歴史の皮肉でしょうか。

まとめ:「両班」になるための「科挙」への不正は許せない。

いずれにせよ、朝鮮半島では両班を頂点とした身分制度は日本に併合されるまで続くことになりました。その後時代を経て、現在の韓国は自由主義経済の民主主義国家ですが、財閥の力が強く、現代版両班と呼べる状況なっています。

財閥が現代版両班だとすれば、その財閥に入るための資格である学歴を得るための大学入試は現代版の科挙と言えます。ただ、李氏朝鮮時代と異なるのは、当時は「科挙」を受けるために階級の制限があったのに対し、現在はいずれの国民も大学入試を受けることができます。

その公平さを取り戻した大学入試=科挙に対して、権力を行使して不正を行うことは、財閥=両班への皆に開かれた出世の手段である「科挙」に対する冒とくであるということになります。だからこそ、韓国民はかつて両班が権力を独占し、下の階級の身分の者を搾取し、なおかつ両班が身分を世襲してきた歴史を(無意識にしろ)思い出すからこそ、権力者の子供の不正入試に対してこれだけ国民感情が爆発するのではないかと思います。

このように、ニュースの中にもいろんな歴史的背景があるかもしてないと思ってみる視点も人とは違った見方と言えるのではないでしょうか。

天皇陛下・令和・民主主義-「天皇陛下のおかげで、日本は民主主義になれたんだよ」

解説-令和への改元の話題があふれている中で、天皇制に対しても国民が考える機会になっており、色んな意見が出ています。その中には天皇陛下・天皇家存在に疑問を呈し、国民の上に天皇家があるのは国民平等と民主主義に反するという意見もあります。

しかし、それは逆で日本国民が平等となり、日本が民主主義を取り入れることができたのは、天皇陛下のおかげと言えるのです。

民主主義が根付く条件

民主主義の一番重要な原則は一人一票ということです。これは、一人ひとりに性別や能力の差があっても全員平等に一票しか持てないという意味です。よく考えれば、これほど不条理なことはありません。

何十億も稼いで、たくさんの税金を払って、結果的に国に貢献している人も、自堕落的で仕事もしないで親のすねをかじっている人も同じ成人であれば、同じ一人一票なのです。そして、その同じ一票が同じ価値の一票として、国の政治を決めるのです。これはたくさん税金を払って、国に貢献している人やお金と権力を持っている人から見れば、全く税金を払っていない人や自堕落的な生活を送っている人と同じ権利しか行使できないのは不公平に見えます。

現在民主主義国家となっているヨーロッパの国も昔は身分の格差がありました。特にキリスト教カトリックはローマ教皇を中心に下に協会があるといった階層的な仕組みになっており、神父様と一般民衆が平等で同じ権利を有するという考え方はありませんでした。

そんな社会を変えたのが、1517年にルターが展開した宗教改革です。これにより、ローマ教皇の権威を否定し、神父も一般民衆も「神の前に万人は平等」という考え方が生まれました。人間はみんな神に作られた小さな存在だから、人間の個体差などは神の前では瑣末な違いであり、神の前では人間という生物として見たら同じだということです。この神の前に平等の考え方が一人一票という民主主義の基本的な考え方を担う土台となりました。

つまり、創造主(神)という万物を超越したものの強大な存在感と権威があってこそ、人間は個体差を超えて平等という意識を持つことができるようになったのです。

日本では天皇陛下が民主主義の源泉

現在ではヨーロッパのほとんどは民主主義国家となっており、これは先に述べた一神教であるキリスト教と宗教革命による「神の前には万人が平等」という考え方が浸透したことが大きく影響しています。

では、一神教ではない日本がヨーロッパに次いで民主主義国家になれたのはなぜでしょうか。日本にも江戸時代以前には「士農工商」に代表される身分制度がありました。武士と町民が同じ身分であるという考え方は全くありませんでした。

これを解決したのが天皇陛下の権威です。ヨーロッパでは「創造主(神)の前では個体差はあっても所詮同じ人間だ」という理論で平等化が行われました。これを日本では「天皇陛下の前では個体差はあっても所詮同じ天皇陛下の臣民なのだ」という理論で平等化を行ったのです。

一神教ではなく、八百万の神を信じる多神教国家の日本では、万物を超越した神という絶対的存在ありませんでした。そこで、考え出されたのが「一君万民」という天皇陛下の下では国民全員が家臣という点では同じという考え方です。

当然、国民の中にも個体差があるのですから、優秀な国民とそうでない国民がいるのですが、「天皇陛下の下では全員同じ家臣であるという身分に違いはない」という理論によって、民主主義に必要な身分を乗り越えて国民皆平等という原則を作り上げたのです。

天皇陛下が無私であるからこそ

日本において「一君万民」が成立したのは天皇陛下が天照大神の血統を万世一系で継いでいるという神話の上に成り立っている宗教的側面がひとつあります。もうひとつの重要な要素は天皇陛下が国民の中で尊敬される存在であったということです。

これは今の今上陛下を見ると人間性が素晴らしく、尊敬されるのは当たり前のようですが、歴代の天皇全てが素晴らしい人間性を持った人物だったわけではありません。例えば、後醍醐天皇は権力奪取という私的目的に邁進し、国内を戦乱に巻き込みましたし、孝明天皇は偏狭な攘夷論者で、開国に徹底的に反対し、日本の近代化を阻害する要因でした。

しかし、重要なのは、天皇陛下は一貫して国民のために祈る存在であり続けたということです。祈るという行為は自分のためではなく、ただ他人のため、国民のための行為です。例外的な天皇はいたとしても、歴史上誰も天皇に取って替わる権力者がいなかったのは、他国の王様や皇帝と違い、天皇は無私の存在であることを日本人全体が尊敬していたからではないでしょうか。

その尊敬の気持ちが「一君万民」を国民に浸透させる原動力となり、他のアジアの国に先駆けて、キリスト教国でない日本が民主主義=普通選挙法(女性に選挙権はなく不十分ですが)を1925年の段階で成立させることに繋がっていったのです。

まとめ:天皇陛下こそが日本の民主主義の源

天皇制反対論として、天皇陛下という存在が国民平等の原理に反するという論がありますが、これまで述べてきたとおり、これは全くの逆です。キリスト教という一神教ではないアジアの日本が民主主義になるためには、天皇陛下の下に「一君万民」で国民を平等化することが必要だったのです。

以前の記事でも述べましたが、国会議事堂は戦前から建築されているのを見ても分かるとおり、日本は戦前から民主主義があり、敗戦後アメリカに民主主義を教えられたわけではないのです。

その日本独自の民主主義の根幹には天皇陛下の存在があったという見方は人とは違った見方と言えるのではないでしょうか。

新元号・令和-「保守派に配慮して日本の古典から選ぶことでバランスをとったな」

解説:4月1日11時半過ぎからの菅官房長官の記者会見の場で、新元号が「令和」となることが発表されました。この「令和」は万葉集が出典ということで、これまで中国の古典から選ばれてきた元号が、今回初めて日本の古典から選ばれることになりました。この背景には、保守派への配慮が見え隠れしています。

ご譲位前の新元号発表に反対だった保守派

新元号の発表時期に関しては、ご譲位が決まってから様々な意見が出されていました。ITがこれだけ発展した現代社会において、プログラムの変更に時間がかかるため、早く発表してほしいという意見がある一方で、保守派からは早く公表することで、国民の関心が新天皇に向かい、現天皇が軽んじられかねないという批判もありました。

保守派の一部は「一世一元」の伝統を重視する立場から、そもそも新天皇が即位するまでは新元号を決めるべきではないという論調でした。しかし、IT化がここまで進んだ現代社会になり、各種情報システムの改修が必要な中では、早期に新元号を発表しなければ、国民生活に悪影響がでることも事実です。

「伝統」か「利便性」かという問題は、天皇陛下に限らず、日本独自の文化の中でしばしば直面する問題ですが、今回の新元号の1ヶ月前の発表というのは、伝統と利便性の間で何とか調整したギリギリの判断ではなかったかと思います。

参議院選挙前で保守派の支持を得たい首相

一方で政府サイドから見ますと、今年7月に迫る参議院選挙を見越して、保守派の支持層を失いたくないとの思惑があります。いわゆる保守派と呼ばれる層が安倍首相の岩盤の支持層であることは間違いありません。最近の改正入国管理法や実現はしていませんが、憲法に自衛隊に加憲で対処する案などは、岩盤の支持層である保守派からも懐疑的な意見が出ていました。

そのような状況下での新元号発表を新天皇ご即位前に前倒しするということは、保守派からの更なる反発が予想させる状況でした。そんな中で、2018年8月に新元号制定の際に中国の古典だけでなく、日本の古典も選択肢に入れて検討するというニュースが出ました。 この時のニュースはあくまで選択肢の一つとして日本の古典も検討するというニュアンスでしたが、もしかすると、この段階で日本の古典から出典することは規定事項だったのかもしれません。

実際の新元号決定の裏側は分かりませんが、客観的事実を見てみますと、保守派が反対する新天皇ご即位前の新元号発表は社会システム上不可避でしたし、その結果として保守派が反発したことは事実です。しかし、今回の日本の古典を出典として「令和」という新元号の決定により、保守派としては「中国の古典によらず、日本の古典から選んだこと」について、良い印象を持つことは確実でしょう。

保守派を黙らせる深謀遠慮?

保守派から見れば、「一世一元」の伝統を無視したことはマイナスですが、「中国の古典から選ぶ」という伝統を無視し、「日本の古典から選ぶ」ということはプラスになります。ここでのポイントはプラス点もマイナス点も保守派が言うところの「伝統」は同じく1つずつ無視をしている点です。

これでは文句を言いたくても言いづらい状況になります。保守派がマイナス点の発表時期に対して「伝統無視だ」と文句を言えば、ブーメランとしてプラス点の日本の古典から選んだことも同じく「伝統無視だ」ということになるからです。

まとめ:事実は何十年か先までわかりませんが・・・

もちろん、そのような政治的理由だけで新元号が決まったとは思いたくないですし、実際には有識者の懇談会により決めることになっているので、政府が直接新元号を決定されることはできません。

しかし、最近「平成」が決定するまでのプロセスが報道されるようになった中で明らかになってきたこととして、有識者の懇談会において、「平成」が選ばれるように他の候補を「修文」、「正化」とアルファベットで標記した時に「平成」以外は昭和とかぶる「S」が頭にくるものを選んで、誘導したという話も出てきています。

今回の「令和」決定のプロセスが明らかになるのは何十年先の話になると思いますし、実際のところは私の考えすぎである可能性も十分あります。しかし、このように新元号が初めて日本の古典から出典されたという事実の背景を政治的に考えてみることは、人とは違った見方と言えるのではないでしょうか。

原発再稼働・もんじゅ-「日本は資源がなくて戦争に追い込まれたことを思い出そうよ」

解説-福島第一原発の事故から8年が経ちましたが、廃炉は未だ途中で、帰還困難区域の方々は故郷に自由に足を踏み入れることもできない状況です。原発事故が人々の普通の平和な生活を奪ったことについて、電力会社をはじめ、原発村の人たちには痛切に反省してほしいと思います。

しかし、だからといって原発絶対反対となり、全原発を止めてしまえという論調に飛躍することは、過去の戦争の失敗から目を背けることだとも思います。

資源がないことの弱さ

「日本は資源がない国」とよく言われます。だからこそ、技術を磨いて、品質の信頼性を上げ、世界で勝負してきました。家電は一時期の最盛期はすぎた感がありますが、自動車は今でも世界のトップクラスにあります。

日本は中東の国々やロシアのように石油や天然ガスなどの資源がなく、そうせざると得なかったのです。だからこそ、現在も石油は99%以上を輸入に頼っており、エネルギー自給率も10%未満という状況です。

これは戦前も同じ状況で、石油輸入の8割を頼っていたアメリカから石油輸入を止められたことで、対米開戦と南進へと進まざるを得なくなったのです。対米開戦の結果、各都市に空襲による都市空爆、広島・長崎に原爆を落とされ、日本は焼け野原となって敗戦しました。

あの戦争を繰り返してはならないという気持ちは日本国民なら誰もが同じ思いだと思います。では、どう繰り返さないようにするのかが大事です。

ここでもう一度、対米開戦の原因を振り返ると、日本に対して1937年に米国・英国・中国・オランダによる「ABCD包囲網」が敷かれたことにより、石油が入ってこなくなったことが大きな原因です。これにより、日本に石油が入って来なくなり、石油を確保するために日本は東南アジアに進出せざるを得ず、そこはいわゆる連合国の植民地であったため、米国を含めた連合国との無理な戦争に突き進んで行ったのです。

石油は当時のエネルギーの根幹です。石油がなければ、戦艦も戦闘機も動かせず、軍事力が実質的に使えなくなるという状況でした。1917年第一次世界大戦中のフランスの首相が米国の大統領に石油の要請をした電報の中に「石油の一滴は血の一滴」と表現されているほどです。

実際に、1941年に国が行った総力戦研究所でも開戦すれば石油が底をつき、日本が敗北するという研究結果が出ていたのです。それでも、戦争をせざるをえない状況に追い込まれたのは、エネルギーがなかったという一点につきます。

もんじゅが持つ別の意味

エネルギーが敵国に握られていたせいで、戦争に追い込まれ、悲惨な敗戦を迎えてしまった日本は、戦後それを克服する努力を十分にしてきたでしょうか。

戦後エネルギーに関して大きく変わったことは、原子力という新しいエネルギーが出てきたことです。原子力は少ない資源から大きなエネルギーを得ることができますが、安全性に関してはリスクがある資源です。この原子力を日本が推進してきたことは、戦前の反省という意味ではエネルギーの供給先が偏るという戦前の反省を生かした国防上、必然と言っても良い判断であったと思います。

その後日本は、高速増殖炉のもんじゅを推進していきます。もんじゅが完成すれば、プルトニウムを燃やして増殖させることで、永遠なエネルギーを得るという計画でした。しかし、1兆円以上の開発費を投じたもんじゅは、結局1Wの電気も生み出さないまま、廃炉となることとなりました。

ここで問題にしたいのは、このもんじゅが反対派の言うように原子力利権のための無駄遣いだったのかということです。もちろん、大量の国費が使われ、ナトリウム漏れを含めて、何度も問題を起こし、将来も実現が難しいという状況になっても、失敗を素直に認めず、さらに無駄な国費を費やしたことについては、徹底的に追及されるべきだと思います。いわゆる原発村に流れていた国費が利権と化していたのも事実でしょう。経産省をはじめ、失敗の原因は徹底的に追及するべきです。

しかし、もんじゅが成功すれば、プルトニウムを増殖させることで、日本が名実共に自前のエネルギーを持つことができました。この理念は間違っていないと思います。自前のエネルギーを確保しなければならないというのは、戦前の反省そのものだからです。

まとめ:歴史の反省としての原子力

このような視点に立つと、原発の再稼働も違った見方ができると思います。福島第一原発のように、原発は事故を起こすと土地や海まで汚染して、国民が住めない土地になってしまうという大きなリスクがあります。しかし、そのリスクと経済上のメリットという視点だけでなく、国防・安全保障としてのエネルギーという視点も加えた上で、選択していくことが必要ではないかと思います。

それでも国民が国土を汚してしまう可能性がある原発再稼働に反対であるならば、メタンハイドレートなどの日本の新たな資源を全力で開発することや、米国のシェールオイルの輸入を増やすことや、ロシアから天然ガスのパイプラインを引く等の具体的なエネルギー確保の代案がなければ、先の戦争の失敗が無駄になってします。

また、逆に原発再稼働を推進していく際には、そのリスクを最小限まで減らせるように、技術開発に投資をし、第三者機関による運用状況の監視といった施策を取っていく必要があります。原子力は安全という神話は初めからないという視点で、現実的なリスク軽減の方法を海外にも習って追及すべきです。

このように原発再稼働やもんじゅについて、原子力は危険だという視点だけでも、原子力は経済的にメリットがあるという視点だけでもない、歴史の反省としてのエネルギー確保という新しい視点でみたこの台詞も人とは違った視点と言えるのではないでしょうか。

徳川綱吉・生類憐れみの令-「生類憐みの令は平和をもたらした面もあるんだよ」

解説:日本史上でも屈指の悪法として名高い「生類憐みの令」。犬公方とも揶揄された暗君の 徳川綱吉によって制定されたもので、最終的には蚊を殺しても罰せられたといわれる世紀の 悪法といった見方が一般的だと思います。

しかし、今回も別の視点で見てみたいと思います。 当時は戦国時代の名残もあり、鷹狩や犬追物といった動物狩りが武士の鍛錬の為に行われて いました。また、1602年に廃止の通達は出ているものの武士の辻斬りも頻発しており、 これらは武士の鍛錬の為であれば、命を粗末にして良いという風習が戦国時代の名残を受けて 残っていたということです。生類憐れみの令はそれらを全て違法として止めさせる効果が ありました。いわば、社会の価値観を戦国時代の価値観から、今で言うところの動物愛護、 人権尊重へ大転換させる為の試みだったという見方もできるのです。織田信長は乱れた治安を 回復するためにたとえ1銭でも盗難したものは処刑すると言ういう「一銭斬り」という滅茶苦茶 な法律つくったという話がありますが、実際にそれで治安は劇的に良くなったと言われます。

人々の意識を変えるにはそのような厳罰を科す滅茶苦茶な法律しかなかったのかもしれません。 同じように「生類憐みの令」も厳罰により、人々の意識を変えるための綱吉の深謀遠慮だったの かもしれません。実際にこのときの意識改革がキリスト教が普及していないにも関わらず 後の西欧型の人権意識が比較的スムーズに日本で受け入れられるための土台となっているのです。 そう考えると世紀の悪法と言われた「生類憐れみの令」の見方も変わるのでは?

織田信長・残虐-「信長のおかげで、我々は宗教戦争がない国になれたんだよ」

解説:織田信長はゲームの中でも悪いボスに描かれることが多く、「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」のイメージもありとても残虐な独裁者として世の中に 浸透しています。特に比叡山焼き討ち事件は1500~4000人の僧侶をことごとく 皆殺しにしたとして、信長の残虐行為の象徴とも言えます。しかし、このイメージには 違う見方もできるのです。まず、現代のお寺や僧侶と言えば、穏やかで温厚で政治とは 関わらないイメージですが、当時の僧侶は領地もあり、経済力もあり、武器もあり、バリバリ 政治に関わっている存在だったのです。思い出してください、鎌倉時代のヒーロー源義経に 付き従っていた武蔵坊弁慶も僧侶だったのに橋の上で刀狩(いわゆる乱暴狼藉ですね)をして いたではないですか。

その当時の寺社勢力はバリバリの政治勢力で他の宗派との間で戦争し たり、大名と組んで勢力争いをしていたりしたのです。例えば、1532年の山科本願寺合戦 では、日蓮宗の宗徒が山科本願寺を攻撃し、本願寺境内を焼き討ちしたり、その4年後には 比叡山の僧兵が京都法華宗の21本山を焼き討ちし、放火するという天文法華の乱といった 宗教戦争が起きていました。

その中で比叡山延暦寺は信長と敵対していた浅井・朝倉家に加担し ていました。これに対して信長は浅井・朝倉と手を切り、中立を守れば、領地を安堵するがさも なくば全山を焼き払う旨の警告も発していました。しかし、比叡山延暦寺はその警告を無視し、 反信長の姿勢を崩さなかったため、翌年焼き討ちにまで発展したのです。もちろん、残虐であるこ とは間違いありませんが、その後宗教勢力に変化が出てきたのも事実です。事実、比叡山延暦寺は この事件により武装集団・政治集団としては消滅しました。信長は比叡山延暦寺の他にも伊勢長嶋 一向一揆の信者惨殺も行っています。

しかし、大事なことは信長はその後の宗教を禁じたわけでは ないのです。武装集団・政治集団にならない一般庶民の信仰であれば、これまでとおり問題なしと したのです。これにより日本全国の寺社勢力が武装解除していきます。一部、現在でいう過激派の ような勢力は残ったものの、基本的には当時において政教分離が達成されたのです。

現在、我々日 本人が世界の宗教戦争のような激しい宗派争いと無縁なのはやり方はともかく、信長の功績なのか もしれません。信長もこうした見方で見れば、世間のイメージと違った一面が見えてくるのでは?